10/26 礼拝動画・説教要旨
| 本日の説教要旨 「主は小さくされた者と共に」 山本一牧師 マルコによる福音書10章1〜12節 ⚫︎作家の村上春樹さんは、2009年にエルサレム賞を受賞した際のスピーチで次のように語られました。「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。・・・私が小説を書く理由は1つしかありません。個々の魂の尊厳を浮かび上がらせ、光を当てることです。」このスピーチは、現代のイスラエルのあり方を問う文脈の中で、いま再び注目されています。 ⚫︎聖書はイエス様というお方が常に弱く小さな存在のそばに立ち、その魂に温かな光をもたらされた方であったことが知らされます。今日のマルコ福音書10章に記された内容は一見すると、イエス様が離婚を禁止されたように思われますが、その文脈を知ることが大切です。 熱心なファリサイ派の人が、イエス様に尋ねた「夫が妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」という質問は「イエスを試そうとした」質問でした。当時の宗教家たちは、イエス様を困らせるためにしばしば難問を持ちかけました。「離婚の問題」もその一つで、当時大いに議論されていた問題でした。 旧約聖書には、「人が妻をめとり…妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて家を去らせる」(申命記24章1節)という掟があります。この「恥ずべきこと」とは何を意味するのかをめぐって、さまざまな解釈がありました。実際には、取るに足らない理由や、ほとんど理由のないままに離婚されることもあったようです。 イエス様はここで、「モーセはあなたたちが頑固だからこの掟を定めたのだ」と言われました。つまり、当時の男性の中には無慈悲で身勝手な者も多く、モーセは「せめて離縁状を書き、確かな理由がある時にのみ行いなさい」と戒めたのです。モーセも、そしてイエス様も、社会的に弱い立場に置かれた女性の側に立ち、憐れみの視点から語っているのです。 もし、イエス様が現代におられ、妻や夫の無慈悲、暴力、浪費などに苦しむ人の真剣な相談を受けられたなら、きっと深い同情をもって、違う答えを与えられるに違いありません。 ⚫︎ある時、姦通を犯した女性が人々の前に引き出されたとき、イエス様は律法で裁くことをせず、深い憐れみをもって彼女に接しました。そこには、人を裁く律法主義を超えた、イエス様の温かいまなざしと愛がありました。 このような「弱さへの共感」と「温かなまなざし」は、現代の社会に最も欠けているものかもしれません。しかしイエス様は今も、無慈悲な裁きではなく、愛と共感のまなざしをもって、私たち一人ひとりに臨んでくださっています。そのまなざしを感じつつ、私たちもまた、弱く小さな者と共に歩む者でありたいと願います。 |